2017/11/26 聖日礼拝メッセージ
マルコ2・1~12
本日の聖書箇所(マルコ2・1〜12)は、カペナウムのペテロのしゅうとめの家に、たくさんの人々がイエス様の話を聞こうと集まったシーンです。
ある中風の病人がいました。
彼の友人たちは、イエス様に彼を癒やしてもらおうとしました。
しかし、人々で一杯のペテロのしゅうとめの家に運ぼうにも、「どうしても病人を運ぶ方法がなかった」(ルカ伝)と表現されています。
そこで友人たちは、イエス様の説教の最中に、屋根瓦を剥がしてこの病人を吊るし入れました。
草と泥で出来た簡素な家ですから、修復にはさほど手がかからないにしろ、人々の目にはさぞ非常識なやり方に映ったことでしょう。
しかしイエス様は、彼らを咎めることはしませんでした。
この四人が友のために信仰と愛を働かせて取った行動に、「あなたの罪はゆるされた」と癒しを宣言されたのです(5節)。
この病人自身も、何とかして神様の業をなさる方にお会いしたいという一心だったと思います。
この病人が四人の友人たちの愛を受けて信頼したことで、そこから一致が生まれたのだと思います。
この五人の姿から、信仰は神様に向かうものですが、人々に向かう時には信頼や優しさが必要であり、一致は愛や優しさから生まれると感じさせられました。
律法学者は常識的で律法を忠実に守る立派な人々だったかもしれませんが、そこから外れた人には冷たい目を向けました。
イエス様の「罪はゆるされた」という宣言に対して、神を冒涜する行為であると内心では非難しました(7節)。
その内心を見抜かれたイエス様は、「人の子が罪をゆるす権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために」(10節)とおっしゃいました。
律法学者たちの思いは最もなことですが、それでもイエス様のことを知らないと大きな過ちを犯してしまいます。
三位一体の神ご自身であるイエス様の「罪はゆるされた」という宣言は、中風の人が、体の癒し以上に最も必要としていたものでした。
病が罪の結果であると考えられていたあの時代、どれだけ解放される思いだったでしょうか。
カルバリの山にで、最も惨めな重い刑を負わされた時でさえ、「あなたの罪はゆるされた」と宣言されたお方です。
私たちはイエス様にゆるされた罪人同士です。
賜物も性格も外見も皆違いますが、隣人のために信仰を働かせるならば、イエス様は受け入れてくださいます。
心の最も奥深いところにまで手を差し伸べて、問題を解決してくださいます。
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