2019年10月21日 聖日礼拝
聖書箇所:ルカ18・1~8
イエス様が語られたたとえ話(ルカ18・1~8)に出てくる一人は、強い立場を象徴する、恐れを知らない裁判官であるのに対し、もう一人は弱い立場にある貧しいやもめです。
しかし彼女には、熱心に訴えるという武器がありました。
この訴えに「うるさくてしかたない」と根負けした裁判官は、ついに裁判のやり直しに応じたのです。
同じように神様は、私たちの熱心な祈りに答えてくださるお方です。
ただ、その祈りの答えが私たちにとっていつ必要なのかどうかは、神様の御心によります。
また、祈ってなかなか答ええられないことでも、神様とのかかわりを持ち続けること、そのこと自体が御心でもあります。
いつが最善の時かは、神様がご存じです。
「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」(ヤコブ1・5)
祈りと失望は表裏です。どれだけ祈るかは、どれだけ神様を信頼するかです。
「だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」(ルカ18・8)
このイエス様のおことばは非常に重いものです。
不正な裁判官の心も動かすほどに、このやもめは熱心に訴えました。
同じように、神様に訴え続ける熱心な信仰は、祝福を得ることができます。
それはどんな時も渇きを持って祈り続ける信仰であり、イエス様が願われるものでもあります。
ラオデキヤの教会(黙示3・14~17)にある「冷たくもなく、熱くもない」状態、これは世的に豊かになって不足がない現代の教会の姿を示しています。
それが「実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸である」と、神様の目には見えているのです。
教会の中で起きていることに注目する必要があります。
教会は、イエス様の十字架を中心として、暗闇の力であるサタンに対抗して、世に訴えていくべき存在です。
知識は増えているのに、道徳観念は反比例して低下し続けるこの時代の動きに飲まれず、安心することなく、いつでも神様の前に出られるよう、光の武具を身に付けましょう。
神様の支配と御心を第一に求めていきましょう。
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