新しい生ける道 説教者:坂本 清憲師

2019年8月25日 聖日礼拝

聖書箇所:ヘブル10・19〜25

私たちはなぜ常に人間関係に悩んで生活するのでしょうか?
その原因の1つは、社会的な倫理観に問題があることです。
それぞれが信じるものに価値を置く相対主義の世界では、明確な基準がなくトラブルが起こるのは、当たり前です。

私たちクリスチャンは、イエス・キリストに倫理を置く者です。
これはキリストにあって救われた者の大きな特権であり、常に「新しい生ける道」を歩む歩みなのです。

「新しい」と「道」とは?

「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。」(ヘブル10・20)。
この「新しい」とは、主にある普遍的なものです。
日々廃れていく世の新しさとは違います。
そしてこの「道」とは、「境界線」を意味します。
この新しい道には神様による守り、祝福があり、天の御父という目的地があります。
この道を歩むことで、いつも神様の御心をなしていくことができます。

「新しい生ける道」を歩むための3つのポイント

(1)「全き信仰をもって神に近づく歩み」(ヘブル10・21~22)。
私たちはキリストの血によって邪悪さが洗われ、新しい御霊のバプテスマを受けて、真心をもって神様に近づく者たちです。

(2)「しっかりと希望を告白し続ける歩み」(ヘブル10・23)。
真実なお方であるイエス様が下さったいくつかの約束を、生きる希望とすることです。
その約束の1つが「再臨」です。
「主よ、早く来てください」と祈ると同時に、それまでに自分の心を整えて備えていくこと。
再臨の主を恋い慕い、落ち着いた生活を過ごすことを、主が望んでおられます。

3)「愛と善行を促すために、互いに注意を払い合う歩み」(ヘブル10・24)。
誰かとの関係の中で、自分がどんな行動をとれば、相手に「良い行いをしたい」と思ってもらえるのかを考えていくことです。

以上の3つはまさに「信仰と希望と愛」です(1コリント10・13)。
この3つこそ、いつまでも残る私たちの倫理観であり、このヘブル10章以降で語られていることです。

隣人(相手)がいるからこそ、生ける道を実践できる

私たちは、この世の倫理によって集まることを止めるのではなく(ヘブル10・25)、信仰と希望と愛を伝える上で、隣人がどんな存在であるかを祈り求めて考える必要があります。

イエス様が語る隣人像は、ルカ10章25~37節に記されている「良きサマリヤ人のたとえ」にあります。
決して自分の感情ではなく、「その人が神に愛されているから愛する」という理解に基づいて愛する対象です。
その隣人を愛する時、真の生ける道を歩むことができます。
その私たちが共に集って交わる姿こそ、キリストの証し人なのです。

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