2018年6月10日 聖日礼拝
聖書箇所:ルカ23・32~44
ゴルコタ(ギリシャ語で「カルバリ」)の丘の上に立った十字架。十字架は私たちの信仰の中心です。
ただひとり、私たちの罪を背負われて死んでくださった方が復活し、今も私たちのそばにいてとりなし続けておられます。
神様は、歴史をこの「キリストの十字架」という1つのポイントに導かれました。
この場所で、イエス様のほかに2人の罪人が共に刑に処せられたことは、決して偶然ではなく、神様の配剤によるものです。
イエス様に対し、2人はそれぞれどう応答したのか
四福音書はそれぞれの視点から同じ出来事(イエス様の生涯)を記録していますが、この2人の罪人のことは、そのすべてで記録されています。
この2人は「強盗」と記されていますが、実際の罪状は不明です。
イエス様の贖いがなければ、私たちも本来こうして裁かれるべき者たちでした。
この強盗たちも、群衆や兵士たちと同じく、イエス様を「あなたはキリストではないのか。自分と私たちを救え」(39節)などと侮辱し、嘲笑しました。
そのイエス様は、ご自分を侮辱する彼らに向かって「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのかわからないのです」と、とりなしの祈りを捧げました。
その場のすべての人々を、愛を持って受け入れ、赦しておられたのです。
この、共に十字架についていた2人の罪人のうちの1人の心に、「この人は何もしていない」「この人こそ自分の罪をゆるしてくれる人ではないか」と、イエス様の愛が心に迫ってきました。
一方で、もう1人の心にイエス様の愛とゆるしが届くことはなく、ただただ苦々しい思いに支配されていました。
どんなに同じ福音を聞いても、受け止める人とそうでない人がいます。
私たちの心にも、この最後まで主を受け入れなかった罪人、あるいは主を蔑み続けた群衆やパリサイ人のような思いがないでしょうか?
それは問題や苦しみの中で、イエス様を見上げることなく、ただ苦々しく「自分を救え! 救え!」とイエス様に訴える思いです。
語られたその場ですぐ実現する、イエス様の愛のお約束
心を開いた罪人に、イエス様は直ちに「今日、あなたはわたしと一緒にパラダイス(天の大庭)にいます」(43節)とお約束されました。
そのお約束は絶対です。
イエス様は曖昧なお言葉を語られません。
どんなに主から離れていても、神様の愛が及ばないと思っていても、イエス様の愛は確実に迫ってきます。
私たちはこの世界でも、そして天国でも、主からの愛のお約束を頂いているのです。
イエス様の愛が、まだ救いを受けていない周囲の方々に及ぶよう、「わたしは真理です。命です」と宣言された方を信じ、諦めずにとりなし続けましょう。
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