2018年6月3日 聖日礼拝
聖書箇所:ガラテヤ5・16
「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』」(ルカ10・27)。
この、聖書の中心的教えは、私たちにとって実行不可能な教えでしょうか?
根本に聖霊の働きがあることを理解するとき、前進することができます。
1.「御霊によって歩む」とは何か
「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ5・16)。
この言葉を語ったパウロのクリスチャン人生は、実に御霊の歩みでした。
イエス・キリストと出会い、罪のゆるしを受けて、聖霊による歩みを始めました。
「人はすべて罪人である」「律法による行いでは罪からは救われない」「罪からの救いは、神様の恵みのゆえに、信じる信仰によって賜るもの」「信仰によって義と認められる」と、ローマ書で宣言しています。
そのパウロの信仰が、行き詰ってしまいました(ローマ7・21~25)。
いつのまにか御霊ではなく、肉(自分の努力や能力)によって歩むようになり、落ち込んだのです。
御霊によって始まったガラテヤの教会も、やがて肉の教えによって律法的になり、対立し合うようになりました。
「あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。」(ガラテヤ3・2)。
いつしか恵みによって聖霊を受けたことを忘れ、努力によって御霊を喜ばせようとするようになるのです。
パウロやガラテヤの葛藤の原因はここにあります。
私たちが聖霊を受けたのは、努力の結果ではなく、ただただ主が私たちを愛して十字架にかかって死に、私たちに命を与えんと復活してくださったからです(ローマ8・1~11)。
このイエス・キリストを「私の主です」と告白したことで、パウロの肉の戦いは止み、御霊によって歩むものに変えられました。
2.御霊に導かれる生き方
聖霊によって導かれる生き方、それは律法(肉)の下に支配されることはなく、聖霊の実を結ぶものとなります(ガラテヤ5・18~26)。
そこで大事なのは「互いに」(26節)取り組むこと。
互いに赦し合い、受け入れ合い、心を一つにして互いのために祈っていくとき、キリストの御体である教会が建て上げられます。
福音のために自分を他者に適う者とし、キリストの愛を全うする方向へと向かうことができます(関連1コリント9・19~23、ピリピ2・4~14、ピリピ3・15~16、ガラテヤ6・1~2)。
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