聖霊による信仰の理解  説教者:石田 吉男師

2018年5月20日 聖日礼拝
聖書箇所:使徒1・3~11

ペンテコステ(聖霊降臨)のこの日、もう一度聖書のみことばから、私たちが心に抱くビジョンとの関係で、聖霊が働かれることの意味を理解してみたいと思います。

1.聖霊とビジョン

十字架で亡くなられたと思われていたイエス様が、三日目に死人の中からよみがえったことで、弟子たちは大きな喜びに満たされました。

地上での残りの40日間、イエス様は「神の御国」について語り続けました。
イエス様が語られたことの1つが「聖霊のバプテスマ」でした(4~5節)。
このとき弟子たちの中で最優先事項となっていたのは、イスラエルという国家の再興であり、ダビデ時代の栄光の回復でした(6節)。
彼らは十字架のことがきちんと理解できていなかったので、神様のビジョンよりも自分たちのビジョンを優先させていたのです(マタイ16・21~23)。
これに対し、イエス様は、「それがいつかはあなた方は知らなくてよい。父の権威の中に定めておられるから」(7節)と答えておられます。

イエス・キリストの十字架と復活に基づかないビジョンは、ただのビジョンになってしまい、必ずサタンに利用されます。
ビジョンを全うする力は、十字架と復活の支えです。
この2つが欠けると、聖霊様との関係もおかしくなってしまいます。
主にゆだねず自分の力に頼り、失敗してしまいます。

聖霊降臨を体験し、十字架と復活の真理に目が開かれ、自分たちのビジョンよりも先に神様の御心を置くようになった弟子たちの歩みが、その後どのように導かれていったかは、使徒の働きの各所で確認することができます(2・23、2・36、3・14~15、4・10)。

2.十字架の愛と復活によって支えられるビジョン

最後の晩餐で、イエス様はパンを「わたしの体」、そしてぶどう酒を「新しい契約の血」として弟子たちに分け与えられました。
その出来事に基づいて今も教会で行われる聖餐式は、十字架と復活をはっきりと教えています。
私たちの信仰が、キリストの十字架と復活にしっかりと根ざすことはとても大切です。

アブラハムが、高齢になってやっと得た可愛いイサクを「捧げよ」という、神様の命令に従うことができたのは、父なる神の御心、そのご計画の成就がわかっていたからです(創世22章)。

父なる神様の御心よりも自分のビジョンを優先させようとすると、私たちは自分のイサクを捧げられなくなってしまいます。
自分には無理だと思ってしまいます。

どこまでも父なる神様の御心に従ったイエス様のことを思いましょう(ピリピ2・6~8)。
「わたしの十字架を負って、ともに付いてきてほしい」と語られるイエス様に従っていきましょう(ピリピ4・10~19、マタイ16・24)。

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