放蕩息子と兄の関係  説教者:石田 吉男師

2018年5月6日 聖日礼拝
聖書箇所:ルカ15:7

「放蕩息子の例え話」から、父なる神様と私たちの間に結ばれたいのちの関係について見ていきましょう。

1.失われたものの価値

有名な「放蕩息子」(11~24節)の例え話を見てみましょう。

弟は放蕩の限りを尽くして全てを使い果たし、友人たちから見捨てられました。
人生のどん底でようやく「我に返り」(惨めな現実を知り)、悔い改めました。

悔い改めは、再び父なる神様の方を向く方向転換であり、それまでの物質的な価値観から、霊的な価値観に立って人生を軌道修正するポイントです。

使用人の一人にでもしてもらえればよいとの思いで帰郷し、父に謝罪した息子を、この父親は責めることなく抱きしめて喜び迎えました。
「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」(24節)。
弟息子はこの父の愛によって、新しい人生を始めることができたのです。

神様は、ご自身の姿に似せて創造された私たち人間に対し、「これがお前の罪だ、自分で責任を取れ!」と責めることはなさいません。
むしろ御子イエス様を遣わして、失われた私たちを、ご自身の子として取り戻してくださいました(ヨハネ3・16~18)。
これが私たちを罪から回復させる、唯一の方法だったのです。

2.兄の立場から学ぶこと

このたとえ話にあるもう一つの物語が、兄の話です。

弟を責めることなく受け入れた父に腹を立て、兄は家に入ろうとしませんでした(25~28節)。
まず「自分は一度も戒めを破ったことがないのに、あなたは子羊一匹自分にくれなかった」と言い、さらに「あなたの身代を食いつぶして帰って来たあなたの息子のために、子牛を屠らせた」(30節)と怒ります。
完全に自分と切り離して、弟は罪人、自分を正しい者とさばいているのです。

この兄の態度は、律法学者やパリサイ人にも通じています。
律法を守ることには熱心であっても、その考え方には愛や喜びが欠けています。
クリスチャンでも、相手に怒りを覚え、受け入れられない時があります。
ここで兄のように関係を切ってしまうことは、神様との関係を切ってしまうことでもあります。

私たちは誰でも、かつて失われていたのが、イエス様の愛によっていのちの関係に入れられた者たちです。
お互いをこの関係の中で受け止めていく必要があります(1サムエル24・4~6)。

教会の中で、それぞれ個性も考えも異なる私たちの間でこのいのちの関係が結ばれ、主にあって一致が生まれれば、それはリバイバルの始まりです。
あのパウロに起こった改心(使徒9・1~5)のような救いの御業が起こされます。
異邦人とイスラエルの関係にも同じことが起こります。

キリストのからだとして、祈りの関係、愛の関係、いのちの関係を追求していきましょう。

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