2018年4月15日 聖日礼拝
聖書箇所:ヨハネによる福音書11章
ヨハネ11章に記されたラザロの復活の御業から、神様の栄光、そして永遠のいのちについて改めて学ばせていただきます。
ラザロの死―主の栄光が現わされるために
イエス様は、ラザロの病について、「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光が現れるためである」と語られました(4節)。
神様が愛しておられる人々に、病、試練、問題、不幸があるのは、そこに神様の栄光が現わされるためです。
何か罪や因縁があったから病気になったのだ、という迷信があった当時、イエス様のお言葉は愛に満ちたものでした。
「ラザロは眠っている」(11節)というイエス様の言葉を、弟子たちは「単に眠っている」と受け取りました。
しかしイエス様は、「ラザロは死んだのです」(14節)とはっきりおっしゃいました。
クリスチャンにとって死は終わりではありません。
主や、主を信じる人たちとやがて再び会えるという希望がその先にあります。
ラザロの死後4日たってからベタニヤに到着したイエス様に、ラザロの周囲の人たちは「何もしてくださらなかった」と失望していました。
私たちも、イエス様に対し、「信じているのに、なぜこんなことが自分に起こるのか(なぜ叶えられないのか)」「もし主がこうしてくださっていたら」と抗議の思いが生まれることがあります。
「今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」(22節)。
このマルタの信仰に満ちた姿勢は、私たちも到達すべきところです。
自分の要求を突きつけていた不信仰が、神様に向かう信仰へと変えられていくのです。
私たちのことをすべてご存じのイエス様が、必要を満たしてくださる、という信仰の軌道修正なのです。
主の永遠のいのちは、すでに私たちの中にある
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(25節)。
これは、何をおいても忘れてはならない、救い主イエスの力強いみことばです。
私たちに与えられた永遠の命は、イエス様が私たちの心に住まわれて、ひとつとなってくださったものです。
永遠のいのちは私たちのうちにあるのです。
神の子、いのちの主イエスを信じるというマルタの告白(27節)に倣いましょう。
「その石を取り除けなさい」(39節)。
このイエス様の命令に、人々はすぐには応じませんでした。
この墓石は私たちの不信仰と同じです。
しかし仰せの通りに墓石を取り除けると、蘇生したラザロが出てきました。
イエス様ご自身は、石を取りのけて復活されました。
やがてこの栄光の主が再臨されるとき、死者の復活があります。
主にお会いできることは、私たちの希望です。
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