ただイエスお一人だけ  説教者:石田 紀子師

2018年2月25日 聖日礼拝
聖書箇所:マタイ17・1~9

マタイ伝17章1節から9節にある「変貌のキリスト」の記事から、神の御子であられるキリストの本質の素晴らしさについて見ていきます。

キリストに現された神様の栄光

この変貌の出来事は、マタイ・マルコ・ルカの3つの福音書の中に記されている、真実のメッセージです。

ピリポ・カイザリヤでの、ペテロの信仰告白の出来事から六日後の出来事です(1節)。
この場所で、主から今後起こる十字架の試練を聞き、弟子たちは大きな動揺と失意を覚えました。

しかしイエス様は、私たちを失望のままで終わらせる方ではありません。

主が現された栄光については、「その御衣は非常に白く光り、世のさらし屋ではとても出せないほど」でした(マルコ8・3)。
ヨハネはイエス様の本質について、「恵みと真実に満ちておられた」と記しています。

私たち人間は、内住の聖霊によって神様の栄光を現わす存在ですが、ここで現わされたイエス様の栄光は、あくまでも神としての本質であり、しかもそのほんの一部でした。

救い(聖書)を全うされるイエス

この奇跡の場所に姿を現したモーセは律法の体現者、エリヤは預言の体現者です(3節)。

この三者が話し合っていたのは、これからエルサレムで起ころうとしている十字架の試練であり、モーセやエリヤが律法や預言を教え尽くしても到底成し得ない、イエス様だけが成就できる人類の贖いでした。
聖書のみことばが完成されるために(創世3・15)、イエス様はあの十字架の苦しみをすべて受けてくださったのです(ヨハネ19・30)。

この光景に感動したペテロが「ここに三つの幕屋を建てましょう」と語る言葉が終わらないうちに、この幻は雲に包まれて消えました。
その後に天から響いた「わたしの愛する子のことばを聞きなさい」という神様のおことばは(5節)、イエス様をモーセやエリヤと同列に置いてはならないことを命じるものです。

モーセもエリヤも消え、そこに残っていたのは「ただイエスおひとりだけ」(8節)でした。

現実に根を下ろした信仰生活を

私たちは素晴らしい霊的な体験をすると、そうしたことを追う信仰生活になりがちです。
しかし「山を降りる」(9節)とは「現実の世界に戻る」ということです。

イエス様は弟子たちに、この出来事について「誰にも語ってはならない」とお命じになりました(9節)。
ただ主のみことばに忠実に聞き従うことを教えられたのです。

イエス様のみことばを聞き、イエス様おひとりだけを見上げて、現実の中に働いてくださる神様に従って歩みましょう。
「私たちは、キリストの威光の目撃者なのです」(2ペテロ1・16)と、イエス様の教えを忠実に守り通したペテロのように。

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