2018年2月18日 聖日礼拝
聖書箇所:ルカ12・22~32
心配や不安は、時には私たちの心と思いを支配してしまうことがあります。
衣食住は大事なことですが、その思い煩いに支配されるのは、まだ神様のことを知らない人々の姿です(ルカ22・29~30)。
マタイ6章26節、またその平行記事であるルカ12章22~33節は、こうした心配について、イエス様が弟子たちに語られたみことばです。
イエス様自身も、人として歩まれた中でさまざまな試練に遭われましたが、心配に支配されることはありませんでした。
ガリラヤ湖で船が大嵐に見舞われる中、「私たちが死にそうになっても、何とも思われないのですか!」という不安をぶつけた弟子たちの言葉に対し、イエス様が風を叱りつけると、波は収まり、湖は静かになりました(マルコ4・35~41)。
信仰に基づく言葉の力については、マルコ11章の記事でも取り上げられています。
空腹を覚えられた主が、(まだ時期ではないため)実がなっていないイチジクの木を見、「二度と実がならないように」と仰せられたことで、次の日には根こそぎ枯れていました。
ここでイエス様が弟子たちに教えられたのは、「自分の言った通りになると疑わずに信じて祈れば、その通りになる」という、山をも動かす信仰の力でした(マルコ11・23)。
この記事で特に注目したいのは、「神を信じなさい」(マルコ11・22)という箇所です。
確かに言葉には力がありますが、しかしそれも、神様を信じる信仰があればこそなのです。
「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」(マルコ5・40)。
心配や不安は私たちの信仰と密接に関わっています。
どんな状況にも動じなかった主の信仰は、父なる神様への信頼という土台に支えられていました。
ですから、ご自身もまた人の苦しみの全てを通られながらも、心配に支配されず、平安のうちに歩むことができたのです。
主は「空の鳥を見なさい」と教えておられます。
空の鳥や野の花が生きて存在しているのは、主に養われているからです(マルコ11・24、28)。
神様による天地万物の創造と支配。
それは、どんなに小さな存在であっても失わずに養われ守られる、そんな愛に満ちた統治です。
主イエス様の信仰の根底にもあった、この父なる神の愛への信頼に立ち、日々を生きましょう。
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