2017/11/5 聖日礼拝メッセージ
聖書箇所: Ⅰペテロ2・18
「尊い礎石」とはイエス様のことであり、「彼に信頼する者は決して失望させられない」と記されています(Ⅰペテロ2・6)。
それでもクリスチャンも人間なので、つまずくことはあります。
そのつまずきの最大の原因は、神様のみことばに従わないことです。
神様に不従順な信仰生活を送っているとつまずくようになるとも定められていますので(Ⅰペテロ2・8)、このことをよく理解し、整理する必要があります。
かつてイスラエルの民が荒野で40年間放浪したのは、この不従順が原因でした(ヘブル3・8〜19)。
みことばを聴きながら神様に従わずにいると、心が頑なになってしまい、神様につまずきます。
みことばを信仰に結びつけていないのです(ヘブル4・1〜2)。
ヘブル語の「聴く」は「シェマー」ですが、「聴いて従う」という意味があります。
神様のみことばに心を頑なにせず、信じて従うのならば、神様の平安が与えられ、道が開かれます(ヘブル4・16)。
アブラハムが信仰によって義と認められたのは、彼の信仰が人間の可能性や考え、行為によらず、ただただ「あなたの子孫はこうなる」という神様の言葉をそのまま受け入れて聞き従ったからです(創世15・5〜6)。
神様の救い、そして信仰によって義と認められることは、ユダヤ人、異邦人にかかわらず人類すべてに共通ですが、ユダヤ人は行いによる義に重きをおくようになりました。
律法はあくまでそれを破った時に罪であることを知ること、そしてその律法を通してメシア(イエス様)の救いを受けることができるようにと、神様がイスラエルにお与えになったものです。
しかしユダヤ人はその律法の目的を、信仰ではなく手段に変えてしまいました。
そのため律法の実践によって義を得ようとするようになったことで、神様の教えに従わず、イエス様につまずいてしまいました(ローマ9・30〜32)。
しかし、彼らのこの失敗は、全世界の人々に福音がもたらされ、信仰によって義とされる道を開くために、神様によって用いられました。
そして異邦人が救いを受けた目的は、イスラエルが再び神様への信仰を取り戻して義と認められるためです。
そこで初めて神様の全人類救済計画が実現します。
イスラエルの救いを祈りましょう(ローマ11・11〜15)。
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