2017/8/13 聖日礼拝メッセージ
聖書箇所:Ⅱ列王5:1~19
ナアマン将軍は勇士でしたが、重いツァアラトに冒されていました。
外側は健康あるいは力があるように見えても、内側は弱く罪の病を持っている私たちの姿に重なります。
神を怖れる謙遜
ナアマンの妻に使えていたイスラエル人捕虜の少女は、預言者エリシャに会って癒しを受けることを勧めます(2~3節)。
苦しんでいる人に手を差し伸べることができるのは、本当に神様を怖れているからです。
善をもって悪に打ち勝つ姿勢です。
一方、アラム王の親書を読んだイスラエル王は、自国にそれほど力ある預言者がいるとは知らず、むしろ侵略される言いがかりをつけられるのではないかと恐怖しました(7節)。
ナアマンは、自分の権威を示そうと、エリシャの元に馬と戦車を引き連れてやってきました。
素晴らしい預言者が出てきて、うやうやしく自分の患部に手を置いて祈ってくれると期待したのです。
ところがエリシャは人づてに、「ヨルダン川に七たび身を浸して身を清めなさい」という簡単な指示をよこします。
そしてヨルダン川を目にし、ナアマンは激しく怒ります。(9~11節)。
福音はシンプルである
ここで一つ、考えされられることがあります。
イエス様の死は、決して華々しいものではありませんでした。
あの十字架の上で、朝から昼の最も暑い数時間、苦しみながら亡くなられました。
「メシアがこんな有様に」と多くの人々が失望し、十字架につまずきました(関連・ローマ1:16)。
イエス様は、私たちの罪深さ、拭いきれない原罪の重さを知っておられます。
その罪の代価は、たった一つの方法、イエス様が私たちそのものの姿になって、ご自身で私たちの罪を負い、十字架の刑を受けてこそ、支払えるものだったのです。
ナアマンの従者たちの「ただ、身を洗って、きよくなりなさい、と言っただけではありませんか」という助言は、イエス様の福音がいかにシンプルなものであるかを思い起こさせます。
罪に溺れて死に至ろうとしている人に、イエス様はただ、つかまる浮き輪を差し伸べてくださるのです。
私たちはただ「あなたを信じます」と言って十字架にすがるだけなのです。
ナアマンはエリシャの言葉(神様のことば)を信頼し、謙遜になって軍服を脱いで、家来たちの前に病の体を晒し、ヨルダン川に身を浸しましました。
すると、癒されました。
「狭い門から入りなさい」(マタイ7:13〜14)。
実は、いのちにいたる狭い門は、この世で自分が抱えているものを全て降ろし、幼子のようになって実を低くすることで、入ることができるのです。
イエス様のおっしゃる通り、「本当に必要なものはわずか、いや一つだけ」なのです(ルカ10:42)。
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