フィラデルフィヤにある教会 説教:石田吉男師

2017/7/2  聖日礼拝メッセージ

聖書箇所:黙示録3・7~13

ヨハネ黙示録は、終末の時代について聖書が唯一教えている箇所であり、教会の過去と現在(1〜3章)、未来(4章以降)についてイエス様が語られるメッセージです(黙示録1・19)。

その中のフィラデルフィヤの教会(黙示3・7〜13)に対するイエス様の教えを見ていきます。
フィラデルフィヤとは「兄弟を愛する者」という意味です。
小アジアの交通の要所にあり、農業が盛んでぶどう酒が豊富に生産され、神殿も立っていました。

1.私たちに対する主のご性質を知る

神様のご本質を知ることはクリスチャンにとって大切です。

聖なる方」(7節)。
預言者イザヤは、ウジヤ王が死んだ試練の年に、王座に座しておられる神様を見ました(イザヤ6・1〜5)。
創造者の臨在からくるきよさを知った時に、自分の罪汚れを知らされます。
イザヤが中でも強く示されたのが、言葉の汚でありますが、私たちは神様の支配の下で言葉を語ることが求められます。
人間の罪深い性質は人の努力では変えられませんが、神様の取り扱いの中(十字架の贖い)でゆるされ、きよめられます(イザヤ6・6〜7)。
そして罪が許されると、神様の愛に応答して生きるようになります(イザヤ6・8)。

「真実な方」(8節)。
なぜ私たちは、イエス様が罪を許してくださっと信じ、祈ることができるのでしょう?
それは主が真実なお方だからです。

「ダビデの鍵を握る方」(8節、イザヤ22・2)。
王の王であられるイエス・キリストは、私たちのために死んでよみがえってくださった、黄泉の門の「鍵」を持つお方です(黙1・18)。

この「鍵」は、みことばの門を開きます(コロサイ4・3)。
この真実なる、聖なる主権者が、鍵を開くと信じる時、みことばが開かれていき、福音伝道に用いられるようになります(コロサイ4・4)。
フィラデルフィヤの教会が賞賛されたのも、みことばを学び、福音宣教に重荷を持って取り組んでいたからです。

2.フィラデルフィアが得る賞賛と祝福

「少しばかりの力」(8節)とは、力が小さいことの現実を指摘することではありません。
少しの能力や賜物であっても、みことばを守って訓練され、私たちが養われることで、神様の賞賛と祝福を受ける者となります(ルカ16・10)。

弱さ、苦しみ、辛さがなければ、キリストが働かれません。
同じ問題で苦しみ続ける悪循環から解放されるためには、少しの力を働かせながら祈り求めてみことばを受け取り、大小の問題を乗り越える訓練を受ける必要があります(Ⅱコリント12・9〜10)。

3.終末における守り

やがて大艱難時代が訪れることが示されています。
しかしその中にあっても、イエス様に信頼する人々には主の守り、つまり携挙が約束されています(10節)。
この永遠のいのちの希望があるからこそ、クリスチャンとして生きる価値があるのです。

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