奥義である内住のキリスト 説教:石田吉男師

2017/6/18  聖日礼拝メッセージ

聖書箇所:コロサイ1・26~27

内住の聖霊は、時代を通じて隠され、そして明らかにされた奥義です(コロサイ1・26〜27)。
その素晴らしさを、パウロの人生の3つの歩みから教えていただきます。

1. ユダヤ教徒であったパウロ

パウロは、律法による人間的な行いを義とする熱心なユダヤ教徒として、信仰による義を説く初代教会を迫害する人でした(使徒8・1〜3、9・1〜2)。

聖書は、律法を良い聖なるものとしていますが、行いがその中心になると、自分を義とする律法主義(思想)となり、やがて原理主義に変わってしまう恐れがあります。

姦淫の現場で捕まえられた女に、誰ひとり石を投げなかったのは(ヨハネ8・3〜9)、みな、実は自分が律法を破っていたことに気がついたからです。
律法の目的は、自分が罪深いものであることを知ることです。
それが原理主義になると、その目的が「石を投げて殺す」という手段にすり替わってしまいます。
ですから、相手に自分の義を押し付けるのではなく、聖霊の取り扱いを求めることが必要です。

2.イエスを体験したパウロ

パウロは、イエス様との初めての出会いを通して、神様に反逆し続けていた自分の本当の姿を知りました(使徒9・3〜5)。
自分の罪深さがわかると、逆に神様がわかってきます。罪だけではなく、恵みもまた増し加わるのです(ローマ5・20〜21)。
多くゆるされた者はそれだけ愛が深まります(ルカ7・47)。

私たちは、内住のキリストを崇めつつも、罪深さゆえに本当はゆるされていないのではないかと悩みますが、救われているのです(ローマ7・22~25)。
この葛藤は、私たちの信仰が、聖霊として内住するキリストによって勝ち抜き、神様の御心に応えて歩もうとする方向へと導かれている過程で起こることです。

3.聖霊の内住を経験したパウロ

パウロは、「キリスト・イエスにある」(キリストと結ばれた)自分を見出したことで、「罪に定められることがありません」と勝利を宣言しました(ローマ8・1)。

それまで自分の目を通しての理解から、聖霊によって、キリストを通して自分を見ることができ、罪の死と原理から解放され、素晴らしいいのちが与えられたからです。

聖霊は「言いようもない深いうめきによって」私たちのことをとりなしてくださいます。それは聖徒たる私たちを完全なものとするためです(ローマ8・29)。
この聖霊の祈りは、私たちの過去のすべての問題を良きに変えて、現在をも良きに導いてくださいます。これがとりなしの愛です。この愛から私たちを引き離すものは1つもないのです(ローマ8・27〜39)。

このとりなしの愛の痛みを知ったパウロは、神様の痛みを学ぶことになります。
それがローマ書9〜11章に記されている、イスラエルへの愛とご計画です。

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