目が開かれる時   説教:石橋薫奈師

2017/5/28  聖日礼拝メッセージ

聖書箇所:ルカ24・13~35

復活のイエス様の不思議のひとつに、十字架につけられる前には親しく交わっていた人々が、よみがえられたイエス様の御姿を見ても、それがイエス様だとわからなかったという出来事があります。
それは、マルコの福音書16章12節にあるように、復活のイエス様は別の姿でご自身を現されたからです。

しかしルカ24章16節から私たちが受け取ることができるのは、たとえイエス様の御姿かたちが違ったとしても、目の開かれている者にはそれが主であることがわかるということです。

本日の聖書箇所に出てくる2人の弟子たちも、初めは現れたイエス様がわかりませんでしたが、彼らの目が開かれる時が訪れました。
それは、彼らが主とともについた食卓での出来事でした。

この食卓にこそ、私たちを永遠に生かすいのちがあります。
天から下って来たいのちのパンを食べる者は誰でも、永遠に生きるのです。

このいのちのパンこそ、私たちの救い主、イエス・キリストです。

このパンは、あの創世記での出来事によって私たちに入ってしまった罪を処罰するために来られ、ご自身の肉体を持って罪を廃棄されました。
このお方は信じる者を罪の支配から自由にし、永遠のいのちを与えます。
このパンのあるところ、それが主の食卓です。

この食卓で主から裂かれたパンをいただくときに、私たちのさえぎられていた目を開かれ、肉の目で見える世界によらず、真実に主を知るのです。

彼らの目が開かれるに至ったきっかけは、現れたお方が誰であるかはわからなくとも、そのお方に一緒にとどまるようにと懇願したことにあります。
それはそのお方が、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに解き明かされ、キリストは、必ず、苦しみを受けて、それから彼の栄光に入るはずであるということを道々でお話してくださったからです。

このお方の口から出るひとつひとつの言葉を聞くときに、彼らの心はうちに燃やされ、ついにはこのお方を引き留める情熱に至ったのです。

これがキリストのノックです。
主が私たちの心の扉をたたかれているのです。
そのノックは1人で聖書を読んでいる時に訪れるかもしれません。
教会で聞くメッセージや賛美の中でかもしれません。
また兄弟姉妹との交わりや日常生活の中でかもしれません。

私たちがこのノックの音を聞くとき、主は私たちが主を引き留め、共に主の食卓に連なることを待っておられます。
主はその食卓で私たちとともに食事をし、さらに深い交わりへと進んでいくことを望んでおられます(黙3・14~22)。

 

 

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