2017/1/22 聖日礼拝メッセージ
聖書箇所:ヨシュア5:13~15
出エジプトしたイスラエルの民は、神様の奇跡と恵みの中を歩んできましたが、問題が生じて自分たちの要求が答えられなくなると、つぶやくようになりました。荒野での40年はその繰り返しでした。約束の地に入ったその年、マナが降るのは止み、彼らは土地で収穫したものを食べました。それは、各々が神様から与えられた信仰と祈りによって戦い、神様から答えを頂くという生き方です。
今回はこの生き方について、さらに掘り下げていきます。
1. 神と自分という関係性で、個人的な取り扱いを受ける
カナンに入るまでのヨシュアは、モーセという指導者の陰で守られて歩んできましたが、あくまで間接的な信仰であり、カナンの地を獲得していくことはできません。今、新しいリーダーとして神様から一対一で取り扱われる必要がありました。信仰者としての個人的な勝利は、他の人々にも影響を与えるものだからです。
この一対一の取り扱いこそ、勇敢に信仰の戦いをするための秘訣です。ヤコブは兄エサウを狡猾な知恵で押しのけた人です。そのエサウと和解する際も恐れが生じて、先に一族の者たちを進ませて、状況が悪くなったら逃げ出すつもりでした。しかし、荒野での神様の直接な取り扱いを通して人格が清められ(関連・創世32:24~32、33:3)、今度は自分が先頭に立って前進していったのです。
毎日聖書を読みましょう。日々の神様との交わり、主の姿を知ることを通して、勝利への道が開けるのです。
2. 戦いにおいて、主の救いを確信する
詩篇51篇はダビデの悔い改めの祈りですが、よく読んでみると、「咎」ということばが使われています。これは、行為として現れた罪の結果です。さらに「私の罪」と言っているのは、原罪である、アダムとイブからの遺伝的な罪の性質をも悔い改めているのです(詩篇51:1〜5)。「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」(詩篇51:1)
パウロもまた、罪人であると同時に原罪を持っているゆえの苦しみを抱えていました(ローマ7:19〜25)。彼はこの苦しみの中で、キリストの救いが罪だけではく、原罪にも及んでいることを確信しました。罪のみなら動物の血による贖いでもよかったのですが、罪のないお方であるイエス様の血潮は原罪からの完全な救いであり、解放なのです。
初代教会でこの信仰観が確立されたことで、それ以降にもその信仰に立った人々の祈りに、神様は答え続けてくださいました。昭和のリバイバルがその一つの表れです。今、この日本でキリストの体である教会が前進するために、私たちはこの信仰観に立ち返って悔い改める必要があります。
ローマ8章には、原罪からの解放と勝利が記されています(ローマ8:31~39)。主の救いが私たちのあらゆる罪を覆っていることを信じ、悔い改め、勝利を確信して進んでいきましょう。
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