苦難における祝福 Part 1 説教者:石田吉男師

2017/5/14  聖日礼拝メッセージ

聖書箇所:詩篇119:71~72

「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩篇119・71~73)とは、聖書が示す幸いな人生観です。

詩篇の作者であるダビデの信仰を支えたものとはなんだったのでしょうか?

信仰の1本目の柱―神様は万物の創造主であられる

ダビデの信仰を支えていたのは、神様は天地を創造されたお方であるという価値観です。

ダーウィンの進化論は、人類の誕生から今日までの歴史を証明するものとして教えられていますが、これはあくまで、人間が目に見える世界の中で考え出したものです。
この世の知恵では、物質的な価値観でしか物事を見ることができないので、神様を信じることができません(詩篇14・1)。

聖書のみことばに触れることで、目に見えない神様が天地を創造されたこと、私たちは、神に愛されてつくられ、恵みによってイエス様に救われた存在であるという霊的価値観へと変えられます。
これを土台とすることで、ダビデが苦難の中でも勝ち抜くことができたのです(詩篇19・1~3、詩篇24・1~2)。

どんな弱さにあっても、神様は私たちを守ってくださる(詩篇121・1~4)。
それがダビデの歩みを支える人生のポイントでした。
私たちが神様を選んだのではなく、神様が私たちを選んでくださり、そのお方が私たちの人生を支えてくださるのです。

信仰の2本目の柱―神様は贖い主である

人間は、神様が創造された世界の管理者となるよう、神様の形に似せられて作られた存在です(詩篇8・3~6)。
しかし、人間的な考えに走って罪を犯したアダムとイブは、その罪の責任をお互いに認めない者となってしまいました。

一方でダビデは常に、神様の御前に自分の罪深さを省みていました(詩篇17・3、詩篇19・12~13)。

人間は何か災いが起こると、自分の罪深さがそれを招いたと考えてしまう傾向があります。
ダビデもそうでした。
私たちは、きよくなりたいと人間的な努力しても、長続きしません。

私たちが本当にきよめられるのは、キリストの贖いを経験したときです。
罪の世界に落ちて人間的な考えしかできなくなった私たちを、神様は代価を払って贖い出してくださったのです(イザヤ43・1~2)。

「贖い」という言葉は、英語ではAtonement、「それ自身において一つとされる」という意味があります。イエス・キリストにあって、神様から離れた私たちが、神様と1つにされたという、素晴らしい恵みです。
この主の恵みを注がれて、主の御心に仕える者となりましょう。

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